
▱ J A P A N -「経」か「実」か- ▱
人が人生の問題のさまざまをその質を違えても反復しながら自らそれに直面し
その時々の成熟さのなかで、亦、或は退嬰するなかに解決してゆくように、世界
の諸国民の歴史もまた同いく、出來するあらゆる質を違えた問題を解いていかね
ばならない。これが歴史が厳然とした史実を通して伝えるところであって、人び
とはその自らの史実を通してのみ、あらゆる問題を解決することが可能になる。
であるから、壮大な日本なら日本の史実の中に、似たような時代、似たような先
達の思索そして決断と結果としての史実を、見究めることがなにより大切な作法
だと念う。それが昨日の日本の国会解散と続く選挙に考えたことだった。
与野党の主張、また宰相の所信表明などを読みながらもう一とつ感じたこと、
それは、「経学なのか、それとも実学なのか」という、日本の歴史で繰り返され
て来た問題を質を変じながらも、また日本の人びとが解かなければならないだろ
うということでもある。経学とは、体面論、観念的な思想であって、日本の思想
の一翼に存り、実学とは、その名の通りの実際学、現実論に拠って立つ一翼であ
って、どちらもが歴史の要請に応じて、その主体を交互にして来たものと意う。
戦前の明治維新の実学から、日露戦勝からアジア・太平洋戦争までの経学、そ
して戦後の実学から、小泉から安倍までの経学。そして現宰相の所信を読む限り
では、要請される実学に於いて、尚も経学を引き摺る印象を持ち、そういう視座
から考えると、現宰相とその時代は、まさに過渡的なものであり、これから誕生
する如何なる政府も実学がその出発点になる───そういう歴史の反復さをここ
でも感じる。
経学と実学が史実のなかで大きくクローズアップされた時代は、改めて述べる
までもなく、律令体制の崩潰から新しい武家体制へと帰結する流れの中に、一方
はその崩潰を食い止めるべく、そしてまた一方は、それに固執するのではなく、
与えられた現実をどう処置するかの立場を鮮明にすることに始まる。前者は藤原
頼長、後者は藤原通憲だと言える。この兩人が何を為したか、体制の崩潰から新
しい時代へどのような役割を結果的にもたらしたかは、歴史の書を再読されれば
と希うのだけれども、一言するなら、律令体制はさまざまな改良を希望しそれを
実行したけれども体制崩潰と新時代の流れは何人も押し止められるものではない
ということだろう。その意でも、現勢の日本は、あの律令体制の崩潰から武家時
代へと続く時代に究めて近似していると日記で触れて来た。日本の人びとが、「
右だ左だ」と言うのは、西洋の装飾の外装であって、実は「経なのか実なのか」
なのだと意う。判り易く言うなら、「美しい日本」であるとか「日本を守る」と
かいった観念的なことばに、経は現せるように考えるし、その源流は、中国の「
春秋論(大義名分)に直線で結ばれるだろう。さきほども述べたのだけれども、
日本という国が危機の置かれた時代、時代には、必ずその前の時代は実の時代で
あり、実の時代の成熟から末に到ると、閉塞と危機の流れが強まり、それを代表
する経が支配的となる。近時代相で観るなら、石原慎太郎から安倍晋三へと漲っ
た、或る種の観念の時がそれに該当するもののように考える。言論の舞台では、
櫻井よしこ、金美齢、福田和也、小林よしのりに表徴とされるだろうか。櫻井さ
んはこの十月、このLAで「美しい日本」と題して講演されるという。その講演
題そのものが、アメリカの現実そして日本の現実、世界の現実、そして展望とい
った歴史、史実的な立脚点に立つ者としては、その使命を交替しなければならな
い経というもののこの時代での末尾のタイトルのように感じてならない。
律令体制の解体期の過程を委曲を尽して観ようとする時、その近似する社会相
に、こんにちとの時系の大きな隔たりさへも覚えないほどに、等符号で密接して
いるように、不断の連続のように覚えて仕方ない。
時の朝廷(政府)は、マナリズムから脱することが出来ず、腐朽と弱体が顕著
であり、安易無力な政となる。そしてその政府を構成する人びともまた、現実へ
の対処法自体を構想出来なかったばかりか、然し、それは律令体制そのものが余
りにも巨大であったからとも言えるけれども、衰頽する流れのなかにせめて成し
得ることといったら、一種の美辞麗句なり経で飾る一種の粉飾を施すしかなかっ
ただろう。その一とつに、先の日記でも触れた「意見封事」があるだろうか。ま
た、「邪濫の僧侶」「堂衆」の跋扈は、こんにちの宗教団体の政治支配とも重な
て見える。中には、小野篁や好吉といった、のちの「良二千石」と称される賢臣
も出てくるのだけれども、それは体制の解体という歴史の既知の中に現れた、役
割を担った人びとであった。
http://www.youtube.com/watch?v=6O3tANG7w3s&feature=player_profilepage
http://www.youtube.com/watch?v=3cCY3auMCxY&feature=player_profilepage
http://www.youtube.com/watch?v=GkUHzzP3Y2g&feature=player_profilepage
http://www.youtube.com/watch?v=Vb8VipFGvxo&feature=player_profilepage
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http://www.youtube.com/watch?v=JLFaWuzgR5o&feature=player_profilepage
ではここまでは経に偏して述べてきたが、実はどうだろう。まさに敗戦とそれ
からの復興、そして高度成長からバブル崩潰までが、日本にとっては実の世であ
った。バブル崩潰が、戦後の帰着だとすると、勿論、経が出てくる。然し、人び
との生き暮らすこと、国も然しだが、常に実を用いなければ経営することは困難
なのである。が、しかし、この局面に於いて実が立ち現れていない。否、もっと
精確にいうなら、大きな主体に成り得ていない実相が存る。個人的には、寺島実
郎、内橋克人、金子勝、宮本太郎といった経済の実なる人びとが強い一方で、日
本の巨視的な実は、佐藤優、若手では萱野稔人といった面々であるが、実への先
進力というと、主体としては未成熟なままではないだろうか。歴史は実を要請し
ているのだが、また実が、史を重んじ、そこから見抜く力を持つ、人材と主体を
要請しているのだが、それが日本の解体期が、あの律令体制のそれとは質を異に
した状態であって、その解法を日本の人びとが為さなければならない、考えねば
ならない問題だと言えるかと意う。
僕自身は、経を否定するつもりはなく、実に殊更に偏する者でもない。史実は
そうした牽強付会を排するものであり、歴史もそれらを排除する。この双つは史
のなかでそれぞれの役割を担う立ち位置である。ただ言えるのは、主役交替の時
なのだろう。そういう意では「美しい日本」誰もが判っている。では、その「美
しい日本」が危機的であるなら、観念ではなく体面ではなく、実なのである。実
が有って経が存り、経が有って実が存る。この過渡期のなかで、実を鍛えなけれ
ばならないし、それは歴史の要請だと意う。歴史の要請の前には、如何なる立場
であれ、主役は交替せねばならない。それが史であるのではないだろうか。
それをいちばんよく知っているのは、意識的にせよ無意識的であるにせよ、他
ならない日本の人びとだろうと意う。






