Tuesday, June 23, 2009

彼は首をくくって、誰もいなくなりました




  十人の黒人の少年が、食事に出かけたら
  一人が喉を詰まらせて、九人になりました

  九人の黒人の少年が、夜更けまで起きていたら
  一人が寝りから覚めず、八人になりました

  八人の黒人の少年が、デヴォンの街を旅していたら
  一人が残ると云い出して、七人になりました

  七人の黒人の少年が、薪割りをしていたら
  一人が自分を割ってしまい、六人になりました

  六人の黒人の少年が、蜂の巣を弄って遊んでいたら
  蜂が一人を刺し殺して、五人になりました

  五人の黒人の少年が、法を学びに行ったら
  そこに一人が残って、四人になりました。

  四人の黒人の少年が、海に遊びに行ったら
  鰊が一人を呑み込んで、三人になりました

  三人の黒人の少年が、動物園を歩いていたら
  一人が熊に襲われて、二人になりました

  二人の黒人の少年が、大陽を仰いでいたら
  一人が焼け死んで、一人になりました

  一人の黒人の少年が後に残された
  彼は首をくくって、誰もいなくなりました

   少々長くなったけれども、今のアジアというもの、日本も勿論そこ
  に含まれ、大きなこの種の案じ方をするのだが、無為のままに、果た
  すかなその無為さ自体が無為ではないように錯覚したままの営みとい
  ったものが、乱世というこの今にあちらこちらで浮かび上がっている
  ように意う。中国、韓半島、日本、インド───。

   現宰相ではダメだという声もある。しかしナゼにダメなのかという
  思念なり一人一人の自分のことば、そして思考でもって答を出してい
  るのか甚だ疑問だ。そして出て来る名前は、石原だ小池だ舛添だ、果
  ては橋下だ東国原だ。これでは日本は終ってしまうと断言出来る。我
  が国を始め、先進諸国が揃って舵を、非市場放任の新しい形の資本主
  義を手探りで歩き始めているのにも係らず、前者二人は、掲げた旗を
  降ろせない、遅れに遅れて頓珍漢な方向へひた走っている方々だし、
  後者は、日本より自分という、思いつき・場当たりの地方首長たちだ
  ろうか。
   これらはこれから襲来して来る予測不可能なあらゆる自体への体制
  とそしてその人事から考えると最悪なる状況───と云ってももう過
  言どころか、そうならざるを得ないと意う。これもみなみな「今日の
  社会にはすでに狂いに似た異常性があるのに、人はいっこうに真剣さ
  と粘り強さをもって対しようとせ」ず「異常は実は世の全般にしみこ
  んでいて、全体が刻々沈んでいくのに、それに気づくことがな」い、
  と云う上田薫氏のことばに共振するのだ。氏は続けて、「史上にはひ
  どい乱世もしばしばあったが、その乱れぶりはその時の人びとにある
  程度見えていたのに、現情報時代のいぶかしさは、だれも大して乱世
  だとは思っていないということである。(中略)今の人間には解決へ
  のまっとうな夢がないのである。絶望しているかと思うとそうでもな
  いのに、結局先送りあなたまかせに事を尽きさせている」と、鋭い指
  摘をしてらっしゃる。つまり、デジタルのもたらすブラックホールが
  有って、すべての意識なり思索なり、そういった知がすべて吸引され、
  残るのは、個と個のつながりだけが辛うじて維持されている。究めて
  小さな小さな自分とその周縁だけが世界になってしまった───。で
  あるから、意識が社会に向うエナジーまでもが、身ぐるみ剥がされた
  状態に至ってしまったということなのだろうと意う。これは何も日本
  だけに限った話ではないのだけれども、日本に集中的に現れている気
  がする。氏は「『ほしがりません勝つまでは』。今老いはてのわれら
  はかつてそう言わされていたが、やがて一応敗戦が到来してくれた。
  このたびの相乗にははたしてどんな終わりがあるのであろうか」と、
  まったく光明の見えないトンネルに果たして出口はあるのだろうか、
  そして若しかするとその出口の先には光明ではなく、未曾有の崩潰的
  な事態が待ち受けているのではないかと述べておられるが、それをど
  うやって克服しなければならないかに付いて、それは「便利さを、わ
  が都合よさを自制しきれるところにこそ、人間の智の極めがある」と
  指摘する。「自制しきれる」。詰まりは踏みとどまる力なのだと俺は
  意う。この話で連想したのが司馬遼太郎氏の西郷隆盛論だ。司馬さん
  は西郷を評して、人は私の塊であるけれどもその私の1%でも可いか
  ら圧縮すること、それが西郷であると語った。俺流に言うなら、なん
  でも可いから、少し我慢して見る───そういう日常の態度というも
  の、携帯電話のメッセージのやり取りも、メッセージが来たから直ぐ
  同時的に返信を打つのが習慣化する怖さ───。その日常の風景は、
  「自制しきれる」なり「押し止まる」といった、すべてが破壊されて
  いる光景である。そうした人が生きうる上での、最も大事な物事がす
  べて滅べば、私の1%も圧縮しようなどという観念な起こりようもな
  いではないか。自分に対する疑問、自分に対する叱責、自分に対する
  律しよう───。これらのものが取り払われた時、人は他者に対する
  視座を完全に失う。存るのは自分だけになる。その自分も判らないか
  ら、制御は全く働かず、陽炎のようにさまよい飛ぶしかない。だから
  といって、人間はそもそもそんな陽炎の状態に心身が耐えられないも
  のだから、色々な悲鳴や罵声や闇雲な突進の仕方で、救いのメッセー
  ジを発するのだろうと意う。だがしかし、物事には多勢に無勢がある
  通り、社会のなかに、良識が多数であれば修復は可能だが、良識が少
  数に転じると、もはやそれは難しく、絶望的である。
   日本の宰相の首を何度替えたとしても、原状は変わらない許りか、
  更に、沈んでゆくだろうと意う。それに対処するには、制度的には今
  の日本の政治そのもののシステムを破棄しなければならないように意
  うし、それが為には47都道府県の独立国家化を先に提起したのだけ
  れども、最早、人びとにとって政治が、身体で感覚で感じない世界の
  ものでしかなくなってしまった制度。それを官僚のせいにするのでは
  なく、改革でもく、自分たちの身体で感じる範囲まで、政治というも
  のを戻さねばならないという趣旨でもある。私見では、もう日本には
  改革なることばさへ小手先にしか聴こえないし、それが果たせること
  は百%で不可能だと強調して置こうと思う。
   アメリカというこの国は、昨日決定された政策、昨日起こった公の
  出来事が、翌日には生活そのものに、直球で影響を及ぼす国である。
  であるから、納税者意識もそれは強く、政治参画の意識が究めて高い。
  政治そのものが、肉体的体感で捉えられるからだ。今更説明するまで
  もないこうした日常の状態が、人を精神的に強くし、自我の更なる発
  達と、それこそ自らの責任と権利の意識を高度な状態に保つことがで
  きる。
   
   昨夜は、日本へ永久帰国する日本人の青年の送別会をささやか乍ら
  主宰した。彼は9年、この国で学んだ好男子で、専攻は心理療法学で
  あり、これから大学院へ進む段になって、日本へ帰国しなければなら
  ない。その辺の事情を尋ねれば、日本におられるご両親が、もはや学
  資を送ることが出来ないことであるという。彼も早朝は、港の荷揚げ
  労働をし、夜はレストランで働きながら苦学する青年であって、すべ
  てを送金に依拠していた訳ではない。大変な苦学生である。日本人が
  世界の最前線で立つ。そういう意味では、日本では想像だに出来ない
  人種的苦労も含めて闘っている青年だ。携帯電話でさへ持っていない。
  クルマも朽ちた車を直し直し乗っている。しかし、ご両親は学資のも
  う援助出来ないこと、そして、逆に「私たちを助けて欲しい」という
  、俺からすれば、日本の親は決して子供に、そんな言葉を吐く存在で
  はないという思いが強いから、「日本は相当に酷いことになっている
  」と身体で感じた。彼のみならず、アメリカから日本へ帰国せざるを
  得ない若者たちが異常に殖えてい、彼のみならずそういう若者たちを
  さいきん富みに接する。これは日本の国力の衰退そのものだと意はざ
  るを得ない。彼等が日本へ帰国して、果たしてこんどは、アメリカで
  暮らした統べてを否定され、揶揄され、妬まれ───。もう目に見え
  るほどだ。
   俺はそういう日常的身体で覚える彼等の苦悩なり哀しみをして、日
  本というカタチの、ぼんやりした死の彷徨みたいなものをどうしても
  感じてしまう。死へのスパイラルであるといっても可い。

   十人
   九人
   八人───

   傍観とした日本という内が、どんどん一人、二人と、統べてのこと
  をただすげ替えたり、或は消去するだけに終始して、はや廿年。
   首を括って最後は誰もいなくなる。
   そういう気がしてならない。
   俺で出來ることはなんとかしようと念う。一人を助けられない人間
  が何が出来るというのか。であるなら助けねばならない。

                            - 了 -

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